人生

GISTという病と闘った過最愛の母と過ごした私の18年

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2023年ありがとうございます。
おたくトラベラーAyuです♪

今回は2021年2月9日に逝去した、愛する母と過ごした大切な思い出を残したいと思います。

2003年8月にガンが発覚し、余命半年を宣告された母が2021年2月9日まで約18年しっかり生きてくれたので、母がこれまでどんな風に生きてきたかを残したいと思い。ブログに書くことにしました。

大切な人を失って3年が経とうとするが、まだ私の中では大きな存在である彼女の素晴らしい人生を思い出そう。

高校3年の夏、母の病気が発覚した。

病名はGIST(消化官間質腫瘍)という当時は抗がん剤もなく、余命半年と告げられていました。

母は看護師でもあり、切除してもらったがん細胞を見て「あ、これは3ヶ月持つかな」と当時は思ったそうです。

叔母に事実を告げられた時は文字の通り頭が真っ白の状態になり「この人は何を言っているの?」と思った。

手術をするまではものすごく元気で毎日看護師として働いていた彼女にそんな病魔が襲いかかっていたなんて、周りの誰も予想していなかった。本人でさえも。

GISTという病気は痛みもなく、大きくなるまで気づかない病気だそうです。本人も「お腹周りが最近太った」くらいにしか思っていなかったが、定期検診の際に影が見え手術をして発見できたくらいです。

その後、母はすぐに離婚を決断します。

私は母の意向に異論は全くありませんでした。

表向きの理由は母子家庭の方が援助があるからとのことでしたが、本音は自分の人生を全うしたいということでした。

父も母の意向に異論はなく、離婚はスムーズでした。

その後の母の行動たるや物凄い勢いです。今思えば「この人本当に死ぬのかな?」って思うくらい毎日を過ごしていました。

家を購入し、残された私たちの財産になるように動いてくれました。

思い返してみるとすごい行動力だし、感謝の賜物です。

母が退院する頃に新薬ができ、運よく体にも合い余命半年から18年弱を過ごすことができました。

その薬(グリベック)は1粒1000円ほどするもので、1日1回4錠飲む必要があるので、薬だけで毎日4000円、1ヶ月で12万もかかります。いくら高額医療が適用されると言ってもかなりの家計の痛手です。

当時高校3年の私は大学受験真っ只中でした。

進学を止められることはなく、しっかり勉強しなさいということで、毎朝6時起床し勉強に励み朝は病院へ行った後に学校の夏期講習で補修を続け夜はバイトをし、無事に大学の進学が決まりました。

薬を飲み出してからの母は食事も普通に摂ることができ、まさかの社会復帰もしました。これには流石に驚きましたが、病は気からというからでしょうか、みるみる間に病人という言葉から遠ざかっていきました。

2月ごろになり、いよいよ余命半年の季節がきました。当時は毎日ビクビクしながら過ごしていたことを今でも覚えています。

あの時は母が18年近くも元気に生きてくれるなんて全く想像できませんでした。

そして1年、2年が過ぎあっという間に10年の月日が経ちました。

母はその間に転職もしてバリバリ看護師として働いていました。

職場のみんなから慕われていたみたいで、葬儀の時に母の友人や同僚たちから「お母さんには本当に助けられたんよー」とか「笑顔が本当に素敵でお花が好きで太陽のような人やったよ」といった言葉を沢山いただき、すごく誇らしく嬉しかったのを覚えています。

10年が経った2013年の定期検診で、再び影が現れました。

手術に向かう母はいつもと変わらない笑顔で「ちょっと言ってくるわ」と手術室に向かいました。

手術を待つこと7時間ほど。無事に終了。初めてみるがん細胞には言葉も出ませんでしたが、担当医の先生が「でかいのが取れたわー」と言ってくれたので緊張がほぐれました笑

その担当医の先生には最後まで手術を担当していただき、母もとても信頼していたので本当に今でも心から感謝しています。ありがとうございます。

10年経つと今までの薬の効果が薄れてきたことが分かりました。

そして、新薬が出たので試すことに。

ただ、その薬(スーテント)は副作用がきついとのことです。手足の皮膚が爛れる、食欲が落ちる、髪の毛が抜けるなど生活に支障をきたすことが多くあるので一旦仕事を辞めなくてはなりませんでした。

しばらくその薬を服用はしていましたが、やはり副作用がきついので、違う薬を処方してもらい、その後母は自分で治験を探したりを繰り返しました。

10年を迎えた後から手術をする頻度が多くなりました。

しかし、幾度の手術からの回復を見ていたので、このままあと10年20年と生きてくれると感じるようになりました。

年に一度、嵐のライブのために何度も一緒に札幌に行きました。2020年の活動休止までの間、嵐の5人の活動に母はとても支えられていました。病気で辛い時はもちろん、コンサートに行くために元気でいなくちゃ!といつも心の支えになっていたのは嵐の存在でした。

今でも本当に感謝しています。嵐の5人に本当にありがとうと心から思います。嵐のメンバー5人(大ちゃん・翔くん・相葉ちゃん・潤くん・にの)みんな本当にありがとうございます。

また、母の大好きな飛騨高山にも何度か一緒に訪れました。

神戸と東京で離れて暮らしていた母と、2020年は沢山の時間を一緒に過ごすことができました。

2020年はコロナ禍で、母は治験を受けるために千葉の柏にある国立がんセンター東病院で行っていたので、東京の我が家で滞在することも多くなりました。

仕事も在宅勤務可だったので、許可をいただきときどき実家でテレワークをさせていただくこともできました。働き方に感謝しかありません。

2020年10月に母は看護師としてバイトをしていました。最期を迎える4ヶ月前まで。今思い出しても本当にパワフルな母で尊敬します。

「ピンピンコロリ」

母が生前仲の良い友人に言っていたそうです。

本当にその通りで、前日にはカキフライを食べ、当日の朝は母が好きな私の作ったスクランブルエッグを少しだけ食べていました。

今でも思い出すと涙が溢れてきます。でも大切なの母のことを忘れないこと。尊敬する最愛のお母さんは、強く逞しく笑顔がとても素敵でお花と旅行と美味しいものを食べることが大好き。

そんな憧れの母のようにいつか私もなれるように、毎朝母のことを毎日思い出しています。素敵な母の子どもに生まれて本当に幸せです。

「お母さん」

そう呼んでも返ってくる言葉はもうなく、彼女はいない。けれどいつも私の心の中の彼女がきっと笑顔で応えてくれています。

お母さんありがとう。これからもよろしくね。

母の手術歴

2003年8月 第一回手術でGIST発覚

2013年4月 再発 手術

2014年7月 手術

2017年12月 手術

2018年7月 手術

[2019年2月28日 愛犬さくらが亡くなる]

2019年3月 治験開始(阪大)

2020年4月 手術(コロナ禍のため立会できず)

2020年11月 柏病院で治験のため入院1カ月

たくさん頑張って、笑顔で過ごして人生を全うした彼女を心から尊敬します。